仏教の言葉やお話

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“気づき”あるところに“智慧”あり

仏教がつたえる智慧ある言葉やお話(エピソード)を、
そわか独自の知見も交えながらいくつかご紹介いたします。
わずかでも、皆さんのお役に立てるものがあれば幸いです。
そわか合掌

「知足(ちそく)」

「足るを知る」とも読むこの言葉。これが指し示すのは、「欲張らずに、現状に満足しよう(感謝しよう)」などという“こじんまりした”ことではありません。良いものも悪いものも、好きな物も嫌いな物も、気持ちの良いものもそうでないものも、全部まるごとひっくるめて“清濁併せ吞む”こと。森羅万象が果たしてどのように具現化されているものなのか、日常や身のまわりの出来事をよくよく見極め、深く「自己の真相」を洞察したときに、初めて、この言葉の真意が掴めるはずです。大切なものは、目には映りようがなく、頭では掴みようもないのです。

「日日是好日(にちにちこれこうにち)」

日々これ好日であるというのは、毎日のんびり豊かに過ごせているからそう言うのではありません。あくせくしていたって、平和でなくたって、貧しくたって、孤独で心細くたって、自分のことが嫌や嫌でたまらなくたって、それでもなお「好日」だ。恵まれているな。幸運だな。有り難いな。・・・と、そういう境涯がひらけて初めて口をついて出て来る言葉です。今日が幸せであるからといって、明日もそうであるとは限らない。明日も幸せであるからといって、それが死ぬまで続く保証はない。「幸せ」ということにも固執せず、「不幸せ」のなかにあってもよろこびを見い出せるような心になって「覚悟」しなくてはなりませんね。

「抜苦与楽(ばっくよらく)」

読んで字のごとく「“苦”を抜いて、“楽”を与える」という意味のこの言葉が示しているのは、それこそがお坊さん(僧侶)のほんとうの仕事でありましょう。昨今では、「葬式仏教」などと揶揄されますように、僧侶の仕事といえばお葬儀や回忌法要を取り仕切ることのように思われてしまっていますが、お釈迦さんの生きていた時代にはそのようなことは無かったはずです。現代のお坊さんは、この“本分”をわきまえなくてはなりませんね。さて、「苦を抜いて楽を与える」と言いましても、これは「苦を抜くこと」と「楽を与えること」が二つあるわけではありません。それは同じことを別の側面から言い当てているのです。でなければ、苦楽の“真価”も分かりますまい。人生、楽ありゃ苦もあるさ。苦あればこそ、楽あり。楽も、苦も、根っこは「同じ」であります。

お釈迦さんと提婆達多さん

お釈迦さんのお弟子さんのなかに、提婆達多(だいばだった)さんという人がいました。彼は、初めの内こそ純粋にお釈迦さんを慕い尊敬していたようですが、そのうちに「嫉妬」のような屈折した気持ちを抱くようになりました。そして、さまざまな陰謀を企て、随分とお釈迦さんに迷惑をかけた(ひどいときには、その命までをも狙った)と、言われています。そうした様子をちかくで見ていた他のお弟子さんたちは、提婆達多さんのことを破門にしよう(教団から追い出そう)と進言なさったということです。ところが、当のお釈迦さんは、提婆達多さんに心底「感謝」されていたというのです。いわく、「彼があれほど迷惑をかけてくれたおかげで、自分はこれだけのものを悟ることが出来た」と。皆さんのまわりにも「迷惑な人」がいるかもしれません。けれども、必ずしもそれは「悪い事」ではないでしょう。よくよく「事実」を見極めれば、その人が自分の近くに“配置”されていることの真意(真実)も見えて来るのではないでしょうか。

ほんとうの「ご供養」

私たちは、大切な人が亡くなると、(ある期間)喪に服します。それはそうする決まりだからそうするのではなく、そうせざるを得ないほどの哀しみ(喪失感)に対して心をひらいていく時間が、遺された私たちに必要だからそうするのです。いつまでも哀しみに暮れ泣いている人には、隣の人が良かれと思って「もう、泣かないで」と声をかけるかもしれません。しかし、その人は、泣きたくて泣いているのではありませんし、泣きたくて泣いているのです。泣かざるを得なくて泣いているのです。人にはそれぞれの受け止め方があり、人にはそれぞれの生き方があります。どのような生き方も尊重されるように、どのような受け止め方もやはり尊重されるべきだと思います。泣いている心も、ふっとゆるんで笑えた心も、亡き人にとってはどちらも「極楽」です。極楽の浄土をうるおす雨も、極楽の浄土を照らす太陽のひかりも、亡き人にとってはそれが「供養」にならぬはずなどあり得ません。形式だけの仏教なんてなくなってもいい。しかし、伝統の中におのずから受け継がれてきた本質ばかりは、これからも末永くこの国の浄土にしみわたってほしいと思います。
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